プロのピアニストなら一度は徹底的に練習したであろうと思われる重要なことの一つは、「和音の音を揃えること」というのがあると思います。「揃(そろ)える」というのは、二つ以上の音を同時に鳴らすことです。「そんなこと簡単じゃないの?」と思われるかもしれませんが、これは意外に簡単なことではないのです。たぶん楽器を演奏する上で一番難しい技術かもしれませんので、ここではそれを説明したいと思います。
二つの音を同時に鳴らすだけなら、ピアノだったら二本の指で同時に二つの音を鳴らせば音は同時に出ます。でも、少し油断をすると音の発音が時間的にずれることがあります。それが三和音になればもっとバラバラになりやすいでしょう。音がずれるといっても、それはほんの少しだったりもするのですが、やはり同時にきれいに鳴らすのとは音色のクオリティが変わります。ピアノを習いたての人はそんなことあまり気にしないかもしれませんし、ピアノを長く弾いている学習者でもあまり意識しないで和音を弾いている人もいるでしょう。また、良い耳を持っていなければそこまで聴き分けることができないということもあり得ます。
和音を同時に鳴らすのは、弦楽器ではもっと大変なことなのです。彼らは同時に鳴らすことに加えて二つの音のピッチを美しく合わせなければいけないという使命もあります。ただ揃えるだけならピアノのほうが簡単なように思えますが、二つあるいは三つの音を同時に鳴らし、それぞれの音のバランスまで考えたタッチということまでいくと本当に難しいです。でも本当に美しい音を求めるならそこまで意識して音を作り出さなければなりません。
こういうことに対してはレッスンなどでもあまり指摘を受けることは少ないのではないか、と思いますし、タッチの精度が少し曖昧だったりしても、「もっと揃えましょう」くらいで終わってしまうかもしれません。本当に芸術的に満足のいく音が出るまで決して先に行ってはいけない、などというレッスンはおそらくないでしょう。それは五本の指がしっかり独立して使える手を持っているかどうかにもかかっていますし、そういうことはその場ですぐに変わることでもないですから。
例えばユニゾン(ピアノであればオクターヴなど離れた同じ音で同じ音型を奏すること)を両手で弾くと、音が揃っているかずれているかがよくわかります。だから「ユニゾンは難しい」などとよく言われます。曲で言えば、ショパンの『バラード1番』などの出だしがユニゾンです。また、究極的に難しい例ではプロコフィエフの『ピアノ協奏曲第2番』の第2楽章とか、ショパンの『ピアノソナタ第2番』の第4楽章など速いテンポで長いユニゾンを弾く曲もあります。音がずれていたら曲にならないので、誰でもしっかり合わせようと思うでしょう。でもこれが「和音」ということになると意外に無頓着な人も多い気がするのです。
いろんな曲を弾いていて、和音を揃える必要性を一番感じる典型的なものは例えばショパンのワルツの伴奏形でしょう。おもに左手の2拍目や3拍目に現れる三和音ですが、これらの和音をいつも確実に美しいバランスで弾くためにはかなりの練習が必要です。同時に鳴らすだけでも難しいですし、例えば上声を弾く親指は、音量の調性と横のつながりを感じた一音一音の音色も求められるでしょう。
こういう和音はテクニック上「重音」とも言われるのですが、この重音奏法が楽器の習得においては一番難しいのではないでしょうか。これをマスターしようと意識するだけでも、音への感度が豊かになっていくように思われます。私自身は学生の頃にショパンの『三度のエチュード』を練習することでかなり鍛えられました。揃えるだけでも難しいこの連続する三度を、絶妙なバランスで芸術的に歌われなければならないのです。そのために一体どれくらいの練習時間が必要だったか。きっと何十時間も費やしたと思います。でもそのお陰でもうどんな曲でも重音の演奏で困ることはなくなりました。もちろんハノンでもそういうことを考えて練習しますから、その感覚自体はもうピアノを弾く際の完全な日常の一部になっているのかもしれません。
やはり徹底的に指の使い方を含めて重音の美しさを意識して練習するようになると、それは大きな演奏のレベルアップにつながるのではないかと思います。
ただこの案件はとても地味なポイントではあります。特に面白いことでもありませんから、例えば私がこれまで数十年にわたって見てきた海外の教授などの指導でも、おそらくこういうことを目の前で厳しく指摘するような人は数えるほどしかいなかったように思います。例えば左手の伴奏の弾き方だけをできるまでやらされているうちに1時間のレッスンが終わってしまったとか(笑)。 だから、こういうことは人から指摘されるようなことではなく、しかるべき時期が来たら自分で自主的にやるべきことなのだと思います。完成を研ぎ澄まさなければいけないし、技術的には職人的なストイックさも要求される部分ではありますが、ピアニストはきっと皆さんそういうことができる人たちなのだと思います。天性の素晴らしい耳と指先の感覚を元から持っている人だったらひょっとしたら違うのかもしれませんが。(笑)