「才能」というものは、一部の天才と呼ばれる人にしか与えられたものではないと思います。私は、どんな人にも必ず秀でた部分、伸ばすべき才能があると信じています。
この話は昨日の講演でも少し触れたのですが、才能というものは最初から誰にも分かるようには現れるわけではありません。あの辻井伸行君でも、最初から天才だと私は思っていたわけではないのです。子供のうちはまだ個性は磨かれていないので、それがもし将来の天才であったとしてもかなり荒削りです。でも、他の人と違うものを持っていたら、そこに気がつかなくてはいけないわけです。そう、人の才能を見いだすには、「他の人と比べてみて明らかに違うこと、ちょっと変わっているように見えること」に注目することが大切です。
辻井伸行君において他の人と違っていたことと言えば、例えば体を揺らしてピアノを弾くこと。あれはピアノを弾く姿勢においては必ずしも良くないのでは?と思う人もいるでしょう。でも見方を変えれば、あれほどリラックスしている弾き方はないとも言えます。そう考えると、その弾き方を生かしてみようという発想に変わります。
また、タッチにおいてもそうです。鍵盤に張り付くような弾き方は、専門的に言えばあまり良いものではありませんが、考えてみれば大切なのは「打鍵のあとの脱力」です。それさえできていればタッチはいろいろあっても良いのではないだろうか?その発想から、彼のその弾き方を生かしていく路線を見つけ、その結果、独特な味のある音色が生まれました。人とは違う部分にこそ自発的なものがあって、それを伸ばしていく方向が大切です。邪道と思われた奏法が、結果的に「どうしたらあんな素晴らしい音色が出るのか」と人に言わせたりするものに変わったのです。
あるいは、彼の極端なまでの「楽観主義」というか「ポジティヴ思考」。
演奏会でたとえ小さな失敗をしても、くよくよしないどころか、その演奏さえも大成功の演奏だったと信じて疑わないほどの明るさ。これも、見方によっては不思議というか、自分を客観的に評価する力が弱いのではないか?、それで本当に大丈夫なの?と思う人もいるでしょう。こんな人はほかにはあまり見ません。でも、これこそが人と違う部分=彼の才能であり、彼の伸ばすべき個性なのかもしれない、ということです。上手くいかなかったところばかりよく気がつくような性格ではない、というのが、彼の個性であり才能です。
そんなふうに見ると、人とはちょっと変わった行動をとる子供や、人とは違った考え方をする子供がいても、そこにこそ、その人の独自の才能が花開く可能性が高いのです。天才になるような人には必ず何か突飛で変な部分があります。そういう人は、例えば、学校生活に馴染まなかったり、常識的に見てもちょっとおかしい子供と見られることも多いでしょう。しかし指導者であれば、そこにこそ伸ばすべき個性があるかもしれない、という見方ができることが大切でしょう。
昨日喋った内容とも重なりますが、私が「才能」や「個性」についてどう考えているかということを少し書いてみました。