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「楽譜に忠実に」の本当の意味


コンクールがあるからには、ピアノの勉強に関して「楽譜をどのように読んでいるか」ということは本質的な論点の一つになると思います。小さな学年の部門であればそれほど問題にならないかもしれませんが、どのエディション(版)を使って譜読みをするかについてもだんだん意識していかなければいけなくなると思います。まず直面するのはバッハの作品あたりからでしょうか。

教える先生の側としては楽譜どおりに譜読みをさせるのが当然ですが、例えばバッハの作品などで「原典版」を使うと生徒はどう弾いて良いかわからない、という問題が当然出てきます。また原典版そのものにも違いがあったりするので、「楽譜どおりに弾きましょう」とは必ずしも言えません。というのは、例えばある楽譜で複数の音が並んでいてスラーもスタッカートもついてない場合、奏法としては音を全部切るか、全部つなげるか、あるいはつなげる音と切る音を混ぜたアーティキュレーションで弾くか、など可能性がいくらもあって、どの方法で弾いても(古典派以降の表記の仕方から見れば)それは「楽譜どおり」というわけではないからです。

またショパンの楽曲にも、曲によってはいろんなヴァリアントが存在し、楽譜によってはフレージングの記譜や音そのものが違う部分などもあって、その中のどれが正しいかと訊かれれば、実はどれもショパンが認めていたバージョンであったりする場合もあれば(ショパン自身のレッスンで加筆されたものが採用されているケースもある)、また版によっては単なる誤植であったり、あるいは校訂者の解釈で決定された音であったりする場合もあるでしょう。とにかく膨大な量の校訂版も存在します。もちろんある時期以降の作品は、初版でもいくつかの出版社からほぼ同時に出版されたものがあって、そのどれにもショパンの意志が入っているという場合もあります。なので、単に楽譜に忠実に弾こうと思っても、きちんと出版・校訂やその他の歴史的経緯を知った上で、部分的にはショパンの意図を限りなく推測した上で確信をもって演奏しなければいけない、というようなことがあり得ます。

ということで、「楽譜どおり」と言ってもなかなか定義が難しいわけです。
少なくともいくつかの版が存在する作品であれば、自分が譜読みをしている楽譜1冊だけの情報をかたくなに信じて弾く、というスタンスだけは良くないかもしれません。少なくともまず知識的には勉強しておく。あるいはいろんな楽譜を参照してみて、もしどこかに違いがあったらその理由を追求してみる、などのアクションを起こした上で譜読みをするべきかと思います。指導をする場合も同じスタンスが大事です。

だから楽譜至上主義という考え方もあるのかもしれませんが、実際にはショパン自身が同じ曲をさまざまな弾き方で弾いたという証言があるわけですし、音を変えてみたり装飾音を入れたり、いくつかのヴァリアントを書き込んだりしていたわけです。後世の人は、どちらの楽譜の版が正しいのだろう?と考えてしまったりするのですが、もしショパンに直接訊ねることができたら、きっと「どちらでもいいよ」ということもあるのではないかと思います。作曲家の頭の中は意外に柔軟で、それは創造者として音楽を生き生きと捉えているところがあるからで、演奏する側もそのあたりにまで思考を巡らせる必要があると思います。

私は生前のカプースチンと一緒に彼の作品の楽譜出版を行ないましたが、作曲家本人と校訂作業をするとどういうことが起きるかというと、校訂中になんとその時点の新しいアイデアを入れてくることがあるのです。つまり、すでに初版は出ていて曲によってはCD録音もされているのに、新しい楽譜の編集の際に音を変えたりするということです。「こちらのほうが良い」ということで、違うメロディにしてしまったり、ハーモニーを変えたりもします。曲の最後に数小節くらい新たに書いて増やす、などということもありました。作曲家はそれほどクリエイティブなのです。そんなわけで、初版の楽譜とは同じ曲でも部分的に違う箇所が出てきたりするわけです。おそらく作曲者本人としては「どちらでも良い」くらいに思っていて、「今はこうしたいから新しい版ではこうする」というようなことが起きるのです。おそらくショパンなどにもそういうことはあったと思います。

だから、「楽譜に忠実に」というスタンスはきちんと持ちつつも、作曲や出版の経緯などの歴史的事項をちゃんと勉強した上で、音楽そのものに対してはもっと自由な感性を持って接することが大事だと思います。楽譜について深く勉強しているほうがより自由になれるのです。またそうすることで自信をもって自分の解釈を施すこともできるようになっていくでしょう。

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