昨日の公開レッスンに特に関係があるわけではないのですが、最近いろんな人の演奏、特に日本人の演奏(大学生も含めて)をこれまでずっと聴いてきて考えたことの一つを書いてみたいと思います。
日本人の演奏は昔から「薄っぺらい」「誰もが同じような演奏」などと言われてきましたが、その理由が最近になってわかってきた気がします(ちょっと遅すぎますが…)。
欧米人に比べれば、日本人(アジア人の中でも特に)は、自分の思っていることや感じたことを表現することを一般的に憚る傾向は強いと思います。それ自体が演奏家のような表現者にはたしかに不利であるとは言えると思うのですが、それ以外にもあるように思います。
ホールなどで演奏を聴いて、多くの人が「上手いなあ~」と思う演奏家は、自分の楽器を自由に操っていて、そして技術においても表現においても高い能力を持っている人たちだと思います。聴衆からよく「音がきれい・音が美しい」などという感想を聞くことがありますが、それは鍵盤のタッチの問題だけでなく、演奏者が音の響きをどのように聴いているかが決定的なポイントだと思います。これはピアノであれば、ペダルの使い方とその技術にも関係があるし、広い会場の響きをちゃんと聴いているか、あるいは、自分の出した音が会場にどのように響いているかを想像できる(自分の耳には必ずしもお客さんとは同じようには聞こえない)かどうかが鍵を握っています。
日本人の演奏は、強弱表現が弱いということをとても感じますが、それはおそらく、練習場所が狭い部屋である場合が多いし、あるいは学校などのレッスン室でもそんなに響きの良い空間ばかりではないからでしょう。普段から、豊かな響きに囲まれた音を耳で聞いていないと、表現意欲が薄れてしまうのだと思います。例えば、がんばって「クレッシェンド」をかけても全然クレッシェンドに聞こえないというような環境で普段はピアノを弾いているのです。
本当に素晴らしいホールで音を鳴らすと、たった1音でも全然違います。そこに良い響きが加わります。そしてさらに1音鳴らすと、そこに歌が生まれます。聴いている人はただちに引き込まれます。良いホールでは、響きがすぐに立ち上がってきたり、逆に、非常に美しく消えて行ったりします。ほんの少しクレッシェンドをかければただちに響きに厚みが増し、ディミヌエンドをかければハッとするような表現に感じられ息を呑みます。上手な人が演奏すると、音に絶妙な陰影が生まれて、聴いている人は音楽に強く引き込まれていきます。
ホロヴィッツは一時期、あまり知られていないかもしれませんが、弟子をとってレッスンをしていたことがあります。彼が若いピアニストに対してどんなレッスンをしたか、明らかに他の先生と違ったことは、「広いホールで実際にどう響くか」という観点からのみ生徒の演奏を聴き、それに対してアドヴァイスをしていたということです。コンサートピアニストとして、比類のない経験に裏付けられた耳を持つホロヴィッツは、コンサートピアニストにとって理想的な音の聴き方や奏法というものを教授したことでしょう。たしかにホロヴィッツの演奏は録音を聴いてもその凄さはわかりますが、実際の生演奏を聴いた人に聞くと、その音色の多彩さや音の繊細さ、またその迫力には、とても録音とは比べることができないほどだったと言います。
一口に強弱法と言いますが、それは音楽表現にとってすごく重要な鍵を握っていると思います。素晴らしいピアニッシモを聴けば、それはこの世のものとも思えないような世界が展開することもあります。逆に、オーケストラで演奏されるような巨大なクライマックスをピアノで表現しなければいけないこともあります。そのように、音の響き一つで聴衆を素晴らしい世界に引っ張って行くことが可能です。
日本という風土では、西洋音楽の楽器はあまり適していないのかもしれません。ヴァイオリンやピアノの音が夢のような素晴らしい響きに聞こえた、という瞬間は持つことは稀です。ヨーロッパにいると、それはとても頻繁に感じることなのですが…。でも、少しでもそういう耳を養おうという意識を持って自分の音を出すようにしていくと、きっと音に対する向かい方が変わっていくように思います。