良い演奏はどのようにして生まれるのでしょうか?
ただ楽譜が正しく読めて指が正確に動くだけで良い演奏ができるわけではありません。どうしても必要だと思うのが、演奏者による「Interpretation(解釈)」の部分です。このことを最近ひしひしと感じます。
演奏するためにはまずは楽譜を正しく読むべきと言われますが、「正しく読む」というのは音符や休符や記号をただ読むという意味ではなく、その音楽を作曲した作曲家の内面的な意図を読み取る、ということです。言い換えれば楽譜を「正しく」というよりは「深く」読むこと、あるいは楽曲を「洞察する」ということです。そのためにはそれまでの自分の音楽的知識や経験、また自分自身の感性を総動員する必要があります。
特に日本の学生を見ていて思うのは、幼少の頃からあまり自分の意見を言わないように教育されているというか、日本社会ではあまり自分をさらけ出すよりは調和を重んじるべきというような風潮があるので、やはり音楽表現においても無意識に自分を出さない方向へ向いてしまっているようにも感じます。あるいは、作曲者が求めたものからあまり外れてはいけないのではないかと思って自分の表現を少なめにしたりします。だから自分の解釈よりは楽譜どおりに正しく弾けるようになろうとか、そのための技術をまずはきちんと身につけようとか、そういうことを最初に考えてしまうのかもしれません。ところが、実際はそのまま曲への深い理解が進まないまま演奏してしまっているケースが多いように感じます。
ずばり言えば、その楽曲を深く研究し、自分の感性を研ぎ澄まし、作曲家自身の考えや美学にまで迫ってその曲を理解しようとしなければ、多くの人の心を動かす演奏はできないと思います。演奏者はInterpreterですが、これはただ「伝える人」というような意味ではなく「解釈者」という部分が重要です。自分自身が深い確信を持って音楽を表現したり、あるいは作曲者の意図を正しく理解しようと努めたりすること。その上で、自分の頭でもよく考えて解釈を施し、それを表現するための技を磨くことでさらにその曲の良さが伝えられるように努力すべきと思います。
例えば欧米のクラシックのアーティストの演奏を聴くと、日本人の演奏とは明らかに違った表現だなと感じられることがあると思います。曲の捉え方自体が自分とは全然違うと感じる場合もあるでしょうし、細部の表現においてもその人にしかできない独特の表現が聴かれることもあります。それは本当によく考えられた演奏であったり、あるいは自発的な表現であったりしますが、そういう演奏に触れてこそ多くの聴衆がその作品の素晴らしさをあらためて理解できたりすることがあったりします。だから、例えばショパンコンクールだったら「どんな演奏がショパンらしい演奏か?」などという観点もよく言われたりするのですが、結局はそれを超えて自分の解釈力をしっかり持って音楽に向き合っているピアニストが、やはり過去には多く入賞しているように見えます。近年はますますその傾向が強くなってきているように思います。
それにしても「ショパンらしくない表現」とは一体何なのでしょう? あるいは演奏においてもオーセンティック(真正)かどうか、などということが言われたりもしますが、結局その人が全身全霊でその楽曲を理解しようと努め、自分の知識と感性を用いて最高のものを生み出そうと考えた時には、そのような小さい視点は吹っ飛んでしまうと思います。演奏者本人の解釈が加わって初めて、その演奏者から味わいのある表現が生まれてきます。「作曲家は絶対このように感じていたはずだ!」という確信とか、「絶対このように弾かなければいけないのだと思う」というほどの確信がなければ、どうしても人に伝わる演奏というレベルまで届かないのです。そのためにはただ楽譜とにらめっこしているだけではダメで、あるいは楽曲分析だけをいくらしてもそれだけでは足りないと思います。そのためにもっと広範な勉強や音楽経験が大切になるということです。