ピアノのテクニックはスケールとアルペジオが一番大事だと言いましたが、いろんな曲が上手く弾けない理由は「オクターヴ」と「和音」を弾くのが苦手なため、ということもよく見受けます。そもそもオクターヴは8度音程ですから、片手でこの音程をギリギリなんとか掴めるという手の大きさの人も日本人には多いかもしれません。最初からチャイコフスキーやラフマニノフのコンチェルトのような曲を弾くことを諦めているという人もきっといることでしょう。とにかくオクターヴが「普通の」音程としてたくさん使われている楽曲がリストなど以外にロシアの作曲家などにも多く出てきます。
それから、和音の弾き方の技術もなかなか奥が深いものです。複数の音を同時に鳴らさなければきれいなハーモニーが得られませんが、同時に鳴らすことに加えて、時には複数の音の大きさをそれぞれコントロールしなくてはいけません。和音の中にメロディーが含まれていれば、その音だけが際立つように弾くなどしなければいけません。ただもっと高度になると、和音を本当に「同時に」すべての音を弾くべきかどうかも疑わしいです。少し音の発音をずらしたほうが味わいが出たりもします。とにかく和音を技術上どう操るかという点はとても奥が深いです。音色で美しさを作り出す秘密がここにもあると思います。
とにかくピアノという楽器は、和音をきれいに奏することができることと、オクターヴで重厚な響きを作ることができることがあるため、まるでオーケストラで奏でられるようなスケールの大きな多彩な音楽を演奏することができるのです。
それにしては、オクターヴと和音のテクニックの習得はピアノ学習者にとってけっこう後回しになっているような気がします。子供の時は手が小さいということと、日本人は相対的に手が小さいということも関係していると思いますが、オクターヴを含む練習はハノンでも最後のほうに集中しているのも事実です。
余談になりますが、カプースチンが14歳の時にウクライナからモスクワの音楽高校に入学して最初にA・ルッバーフ先生から与えられた曲は、アレンスキー作曲の『ロシア民謡による幻想曲 作品48』でした。このエピソードはヤーナ・テュルコヴァさんの本に紹介されていますが、アレンスキーのこの曲はオーケストラの中でピアノがソロの役割を果たすピアノ協奏曲のような作品です。この曲は今ではYoutubeで聴けて楽譜も見ることができるので、興味のある人はぜひ聴いてほしいと思いますが、オクターヴを伴う和音の塊がふんだんに使われています。ロマン派以降の作曲家、特にロシアの作曲家にこのような協奏曲のような作品がけっこう存在します。おそらくこの手の曲を日本のピアノ指導者が生徒に与えることはまずないことと思いますが、モスクワのピアノ教育では中学生くらいの男の子(=カプースチン)にこんな曲を普通に与えているわけです。これを知って「これはかなわない(笑)」と思う人もいると思います。さらに驚くべきは、カプースチンに対して著者のヤーナさんが「その曲は私も弾きました!」と当たり前に言っていることです(笑)。日本のピアノ界の常識とは全然違いますよね。
ではモスクワの流派はオクターヴや和音がこんなに多いハードな曲をバリバリ弾かせる教育かと思えば、カプースチンに言わせると「サンクトペテルブルクとモスクワの流派の違いは、とにかく『音の響き(=音色やタッチ)』にあると思う」と言っています。つまりモスクワの流儀では音(響き)そのものが独特で、音の出し方や音色に語るべき特質があるということです。普通はオクターヴや和音などが多いとそれだけで技巧的に響いてくるというイメージがありますが、名人芸的な要素よりも「音」そのものを重要視しているわけなのです。