クラシック音楽をやっている場合、多くの演奏家にとって自分の勉強している作品を作曲家自身の演奏で聴けるというケースは稀でしょう。録音技術が確立したのが比較的最近なのですから仕方がありません。しかし聴くことができる作曲家もあります。この場合、まずその作曲家自身が達者な演奏家であることが必須となりますが、ピアノでいえば、例えばラフマニノフやメトネルなど、ロシア近代のコンポーザー・ピアニストの録音を聴くことができます。しかも、これらの演奏が半端ではなく素晴らしい。だから、これが模範だという考えが当然出てきます。
実は自分自身がこの罠にハマってしまいそうになったことで、あらためて切実に考えをめぐらせました。過去の作曲家の作品は、再現芸術として演奏家や指揮者にさまざまな解釈が許されています。ところが、現代作曲家の作品についてはまだ「解釈」という段階まで来ていないものも多くあり、作曲家の意図を忠実に表現することがまず第一であるようにも思います。私がカプースチンをクラシック音楽だと認識しながらも、作曲家自身の模範的ともいえる録音が存在することから、おおいにその呪縛にあっていました。最近になって、彼の新作を何曲も譜読みする途上で、やっと先入観を取り去った状態で「楽譜」だけを頼りに音楽を再現するという、クラシック音楽家として当たり前の努力に戻ることで、初めて生き生きとしたカプースチン像が見えてきました。自分の中では、不思議なことに「ソナタ13番」は生きた音楽、「ソナタ12番」は過去の音楽、と捉えて演奏していることに気がついて愕然としました。ソナタ12番は作曲家自身の演奏を聴いてしまっているから、楽譜を真っ白な気持ちで眺めることができなかったのです。
実は過去に書かれた音楽も、この意味で「生きた音楽」として再現するのが演奏する人の使命であることにあらためて気がつきました。考えてみれば、ショパンだって当時、自分の弟子に自分自身の作品をいろんなふうに演奏して見せたという話もありました。“作曲者の演奏よりも楽譜のほうが正しい”という言い方はできないけれども、作曲家自身のたった1回の演奏(録音も)は、その曲のほんの一面でしかないのだということも心に留めておかなければいけません。録音はおおいなる参考にはなりますが、一人の演奏家はそれをまったく捨てたところから自分の音楽を求めなければ魅力のある演奏には到達しないのです。「楽譜」は不完全とは言いながらも、確かに魂が宿った“生きもの”なのです。才能ある作曲家が楽譜に書き記した場合、その楽譜は、その音楽の持つ本質をほぼ(100%とは言いませんが)体現しているものです。