「ピアノ」は本来、他の楽器と比べて一番さまざまな可能性のある楽器といえるのに、音大でピアノを専攻する人はソロの勉強が第一に優先されるために、よほど友人付き合いや積極性がなければ一人ぼっちになってしまう傾向がなきにしもあらずです。
世の中にピアノ曲(ソロ)というものは数限りなくありますが、「ピアノが弾けることを生かす」という意味では、ソロ・ピアノというジャンルはピアノの持つ全体の可能性の数分の一ほどにしかならないと思います。それなのに、世に「ピアノリサイタル」の数は少し多すぎるのではないかと、最近思ったりします。ソロ・リサイタルという形式にこだわる必要はどこから出てきたのだろう?これを考えないと、ピアノ弾きは基本的に孤独であることを今後もずっと強いられるような気がするのです。
だいたい誰がそんなピアノのソロリサイタルなどということ最初に始めたのか。もちろんフランツ・リストですよ。150年以上前のことです。まあ彼のような才能と性格の持ち主だったらやっても良いと思います。パガニーニのような人が出てきた時代ですし、そういう風潮もあったのでしょう。でも実のところリストだって、長くそういう活動をしていたわけではありません。作曲にも従事していたわけですし。
問題は、その後なんだって皆がそんなことをこぞって真似し始めたかということです。もともとその時代の音楽家は一般的に言って「多才」だったから、専門の職業ピアニストもいなかったし、コンサートの内容ももっとバラエティに富んでいました。きっと、作曲と演奏との分業の時代になってきたために、演奏家に強いられる条件が厳しくなっていったのです。演奏家は一人前と認められるために、ワンステージを一人で持たせることができる能力のある人(それも全部暗譜で)はどんどんやって見せたわけです。そしてそれを多くの人が習慣的にやるようになったのだと思います。優秀なピアニストは数えるほどでしたから。20世紀に入ったあたりでも、まだ数えようと思ったらなんとか数えられるほどでした。今は全然違う時代です。
現代のような時代では、例えばある楽器の(ピアノに限らず)一晩ソロを延々と聴かせるだけのコンサートなんて、好きで聴きたいというマニアしか来ないのではないか、という気がしてくるのです。「名曲コンサート」でもない限り、基本的にソロリサイタルというものはそのアーティストのファンと熱烈な愛好家の集いとなるでしょう。
もちろんそれで良いのですが、コンサートなどのイベントは、やはり本来「大勢の人に楽しんでもらうため」にあると思います。マニアが聴きたいものを聴くだけなら、今の時代、家で良い音の出るスピーカーでCDを聴くこともできます。あえて生のコンサートの良さとその意義を考えるなら、「リサイタル」という形式は一体どんなものだろう、と最近疑問を持ち始めていることも事実です。録音技術が今ほど発達するということだって、リストの時代には誰も考えていなかったはずです。
クラシック演奏家ということに限っていえば、その使命はつまるところ、良い音楽を「聴かせる」ことと、良い音楽を「後世へ残す」というこの二点だと思います。その点から演奏家というものを考えてみたいと思っています。