この謎の集団は一体……??
全員がピアノ弾きとは思えないノリですが、正真正銘のピアノ科です。
授業の合間の時間にうまく集まって…。
たまには卓球に燃えるのも良いですよね。
私だって、大学時代はやっていたのですよ。
でも今日は敗勢の時にちょっとだけ本気になりすぎて息が切れてしまいましたが…。
卓球は激しすぎないので、弱めの負荷がずっと持続的にかかるのがとても良いです。
ピアノソナタを1曲弾くよりはちょっと体力を使いますが。
一日だけの卓球部ができてしまいました。
体力は、やっぱり少しムキになって試合をやるくらいじゃないと鍛えられませんね。一人でジムへ行くのとは、疲労度が雲泥の差でした[:きゅー:]
この暑さが我々に伝えているメッセージがあるとすれば、「休め」ということではないかと。最近そうおもえてなりません。アタマもカラダもです。
もっとも、もしそこにメッセージがあるとすれば、の話です。人間はとかく何でも理屈をつけたがりますから、こういうときは生理的に自然にまかせるのもいいのかな、と。
もちろん、社会人なので諸般の事情があってなかなか休むこともできないので、できる限りにおいて、という条件付になってしまいますが。
モスクワやサンクトペテルブルクのあたりでも夏はやはり暑いんですよね・・・という常識は天候が安定している頃はそれを「気候」として言えた時代ももはや過去のものになってしまったのでしょうか。天候の振れ幅がかくなるほどに大きいと、もはやどこが暑いとか涼
村上春樹は、一時期ハマってかなり読みました。独自の世界をもった人で、海外で好んで読まれるのもよく分かります。ご存じと思いますが、村上春樹の小説には音楽が非常に頻繁に登場します。背景として、かかっている音楽の描写だったりするわけですが、演奏家・作品名まで非常に具体的なので、音楽好きな読者は強く想像力を刺激されます。『意味がなければスイングはない』という音楽評論集も出しています。
作中では、たとえば、こんな感じ
「結局電話はかかってこなかったし、すみれも現れなかった。時間が静かにゆるやかに移り、夜が深まっていくだけだった。すみれの部屋にあったカセット・テープをいくつかもってきて、居間のステレオ装置でかけてみた。そのうちのひとつはモーツァルトの歌曲集だった。エ
エリザベート・シュヴァルツコップフとヴァルター・ギーゼキング(p)とすみれの字でラベルに書かれていた。ぼくはクラシック音楽にあまり詳しくはないけれど、それが美しい音楽であることはすぐに理解できた。歌唱のスタイルはいくぶん古風だが、風格のある流麗な文章を読んでいるときと同じで、背筋が自然に伸びるような心地よい感覚があった。ピアニストと歌手の、押しては引き、引いては押すデリケートな息づかいが、あたかも目の前に実際に二人がいるみたいに鮮やかに再現された。そこに収められた曲のどれかがおそらくは『すみれ』なのだろう。ぼくは椅子に身を沈め、目を閉じ、すみれとその音楽を共有した。」(『スプートニクの恋人』p.254より引用)
「台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウディオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ちあげようとしていたのだ。しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。」(『ねじまき鳥クロニクル 第一部』p.11より引用)