Site Overlay

仙台国際コンクール結果/モーツァルト協奏曲のカデンツァ


6月後半に行われていた第9回仙台国際音楽コンクールのピアノ部門も終わり、昨日無事に審査結果も出たようですね。このコンクールは3年おきに開催されていますが、私は第3回の時に音楽誌「ムジカノーヴァ」のコンクールレポートの執筆者として最初から最後まで参加したことがあります。コンチェルト(協奏曲)に大きなスポットが当たっているコンクールとしても、運営委員会や事務局スタッフや地元の人たちによってしっかり運営されている雰囲気の強いコンクールとしても、実は私の中では特別な位置を占めているコンクールの一つです。

結果詳細はコンクールのホームページに譲るとして、一つの大きな驚きはやはり小学生の天野薫さんが3位に入賞したことでしょう。彼女はカプースチン弾きとしても以前から耳目を集めていて、私が主催する「カプースチン祭り」にも参加してくれたりしていたのでよく知っており、昨年はピティナのコンクール会場でもお会いしましたね。本当におめでとうございます。

天野薫さん

彼女の上位入賞やもちろん他の若手演奏家たちの演奏を少し聴いても、ピアノの世界はなんだか最近大きく様変わりしてきているようにも思います。いろいろな感想はありますが、今日はモーツァルトのコンチェルトのカデンツァについてだけ少し書きます。

このコンクールのファイナルでは1曲のモーツァルトを含めて2曲のコンチェルトを選びますが、モーツァルトだけに限って言えば、ファイナリストの6名のうち上位3人がKV467(「第21番」)、4~6位の3人がKV466(「第20番」)を選んでいるという面白い事実がありました。モーツァルトはちなみにほかに4曲の選択肢があるのにも関わらずです。もちろんこの2曲は特に名曲と言って良いし、皆が選びたくなる曲ではあるのでしょう。

この人気のKV467のハ長調の協奏曲についてですが、私が最も好きなコンチェルトの一つなので生徒たちにもよく弾かせます。今回実はちょうどイタリアのペルージャ音楽祭から帰って来たばかりの私の生徒たちも2人がこの曲を選び、現地のコンサートで2人とも自作のカデンツァを弾きましたが、今回の仙台コンクールで弾いた3人ももちろん自作のカデンツァを弾いており皆さん素晴らしかったのです。

ピアノ協奏曲のおもに第1楽章や最終楽章などの最後にオーケストラが止んでピアノがソロで繰り広げるカデンツァというものがあるのですが、モーツァルトの27曲の協奏曲の中にはそれが書いていない曲もあるのです。ベートーヴェン以降の協奏曲ではカデンツァもすべて楽譜の中に作曲者自身が書くような流れになっていくのですが、モーツァルトの協奏曲では作曲者自身が書き入れている曲とカデンツァの存在しない曲があります。慣習によっていくつかのパターンがありますが、KV466は特に異例でベートーヴェン書いたカデンツァを弾くのが通例(今回の3名もそうしています)、KV467は誰か他のピアニストが作曲したカデンツァを弾くか自分で創って弾くのが通例の曲なのですが、このKV467に関する限り、最近はもう自分で作曲して弾くピアニストのほうが限りなく99%に近づいているようにも思います。以前は学生だと自分が弾く協奏曲を選ぶ際に、どのカデンツァを弾くかを決めたり自分で作曲したりするのが面倒なので、あえてカデンツァが当たり前に存在している曲を選ぶという傾向のほうが強かった気がしますが、最近はもう逆転していてカデンツァのない曲を選んで自作を作って勝負するという、言ってみればピアニストの本来のあるべき姿に時代がようやくついてきた、というような感じもします。

というわけで、上位3人のモーツァルトのカデンツァを動画で聴かせていただきましたが、皆さんすごいですね。まずモーツァルトの音楽に敬意を寄せているのがわかりますし(モーツァルトのテーマを巧みに扱う)、大きく曲の雰囲気や流れから逸脱することなく、それでいて自分のオリジナリティをどの奏者も出していて感動しました。一昔前ならカデンツァにモーツァルトとは全然違うテイストの音楽を挿入したり、奇抜なことを考えるピアニストもいたりしたし、ジャズピアニストなどはもちろんもっと創造的にそういうスタイルを目指して良いと思いますが、クラシックのコンクールの場で許される範囲で皆さん大きな創造性を発揮していたと思います。このような傾向はこれからもっと強くなっていくのではないでしょうか。

コンクール全体をもっと観察すれば(他の演奏者の演奏なども全部聴いたりすれば)もっといろんな発見があると思いますし、ピアノの世界が同時代に進化していく道筋がもっとはっきりと見えてくるのではないかと思います。今日はこの話題だけにしておき、また他の機会にいろいろ書きたいと思います。

上にスクロール
Translate »