クラシックの世界では、楽譜さえあれば一応どんな音楽でも再現できることになっていますが、はたして楽譜の情報だけから作曲家の意図がどれだけ正確に読み取れるものなのか、やはり非常に不安になります。
N.カプースチンの未公開作品を含む楽譜の校訂をしながら、作曲者自身の演奏録音が存在することがどれだけ大きな助けになっていることか…と感じます。
例えば、「3つのエチュード」作品67というのがあります。その3曲目の“Grappole”と題された曲。エチュードのテクニックのテーマがこの曲では“葡萄の房”を指すわけですが、つまり隣り合った音符の塊としての特徴的な和音が、導入部では意味深に、主部では可愛らしいメロディーとして使われています。ただ、単に楽譜を正しく読んでも、曲がよくわからない、作曲家の意図が読めないという人はきっと出てくることでしょう。曲中にはスウィングも入っています。しかし、いったん演奏を聴けば、「なるほどこのような曲想か。作曲家の頭の中ではこのような世界が描かれていたのだな…」と理解することができます。素晴らしい音楽ですが、この音楽の感じを言葉で表現することはとても難しいです。
カプースチンの曲は1曲1曲が異なる世界を持っていて、特にこのエチュード集はドビュッシーの「12のエチュード」と非常によく似たものを感じます。もちろん作曲家もドビュッシーのエチュードを意識して書いたことは明らかだと思いますが、コンセプトばかりでなく曲想にも相通じるものを感じます。一聴してすぐにわかるようなものではなく、例えば絵画でも同じ絵を何時間観ていても飽きない、そんな名画がありますが、そのように引きつける独特の世界と雰囲気をどの曲も持っています。
ドビュッシーの「12のエチュード」は素晴らしい作品ですが、他の作品に比べてあまり演奏される機会が少ないです。作曲から100年経っていないので、まだ正しく評価されていないという考え方もあるかもしれませんが、このエチュードはドビュッシーがショパンのエチュードを意識して書いたもので、テクニックを追求したものというよりも、各曲の素材をテクニック上(音程の種類や指の働かせ方など)の分類に求めただけで、あくまでピアノの新しい響きや自分の芸術性を追及しているものです。
カプースチンの「3つのエチュード」は、ドビュッシーに倣っているものの、第1番が「グリッサンドのための」と題されているようにかなり挑発的で、しかし音楽は見事に整然としている。新たな境地をさりげなく開いています。そして、この作品に続いて作品68の「5つの異なる音程によるエチュード」が作曲されているわけで、このジャンルをここまで持ち上げたのはドビュッシー以後カプースチンが最初でしょう。
ドビュッシーからさらに進んでいる点としては、カプースチンはクラシック音楽が無調性を求めた時代や長い実験音楽の時代を経ているし、それにアメリカ的なものも加わっている点でしょう。現代的な感覚が加味されて、たった数十年で音楽の幅が無限に広がっています。おそらくドビュッシーの時代の音楽通たちが聴いたら理解できないものが含まれていると思いますが、逆に現代人にとってはそこが面白くもあるし魅力的な部分でもあります。
でも、ちゃんと理解されるためにはあと50年くらいかかるのかもしれません。スピードの速い現代なので楽譜が出版されれば普及だけはするかもしれませんが、多くの支持者を得るまでにはやはりそのくらいかかりそうです。ドビュッシーのエチュードもまだこの先そのような運命を辿りそうですが…。でもそういうものを残す能力を持った芸術家がいるということは素晴らしいことですね。私たちにできることはといえば、そんな天才たちの功績をできるだけ正しく伝えることだけです。