次のカプースチン・シリーズの演奏会(8/30)には、プロコフィエフのフルートソナタも演奏します。これはよく知られた曲でしょう。
プロコフィエフ(1891-1953)はすでに有名な作曲家ではありますが、本当の評価はまだこれからだと思います。7曲の交響曲など、現在どのくらい好まれて演奏されたり聴かれたりしているか。研究書や伝記もまだ少ないと言えます。
実はプロコフィエフが書いた日記(1907~1922)というものがあって、最近になってようやく英語に訳されて2冊出ました。後半のほうは昨年出版されたばかりです。この日記は日本語ではまだ読めませんが、彼が日本に滞在していた時(1918年)に書いた部分だけは日本語への翻訳が完了し、彼の書いた短編集の翻訳と一緒になってこの8月に出版されるということです。これは私の勤める音大のロシア語の先生が翻訳にあたったものです。すばらしい仕事に感謝です。
プロコフィエフのピアノ協奏曲には、私は大学時代にかなり夢中になりました。今でこそ、若いピアニストたちは彼の2番や3番の大曲を普通にこなしています。でもつい最近まで、これらの曲は難しすぎるとして、多くのピアニストには敬遠されていたはずです。
今から50年以上さかのぼってカプースチンの青年時代、プロコフィエフのピアノ協奏曲はロシアでも弾いている人はまだあまりいなかったことでしょう。カプースチンは18歳の頃(1956年)、モスクワ音楽院に入学する試験で、他の曲とともに準備した中にリストの《ドン・ジョバンニ幻想曲》とプロコフィエフの《ピアノ協奏曲第2番》があったそうですが、試験委員の先生は「ドン・ジョバンニ幻想曲を弾きなさい」と言ったそうで、プロコフィエフの協奏曲は評価のしようがなかったというわけです。彼は、本当はプロコフィエフを弾きたかったのです。どちらにしてもこの選曲はヴィルトゥオーゾですけどね。
カプースチンとプロコフィエフの出会いは、そのようにかなり早い段階で始まっていて(ジャズとの出会いと平行して)、青年時代までには5曲のコンチェルトのうち左手のために書かれた第4番以外はすべて隅々まで弾いて勉強していました。プロコフィエフのさまざまな新しい音楽的試みは、今聴いても新鮮なものがあるし、明らかに後世の作曲家に大きな影響を与えています。もしプロコフィエフがいなかったら、カプースチンの名曲の大半は生まれていなかったものと思われます。