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「エチュード(練習曲)」再考

エチュードと聞くと、一般的には「指を鍛える」とか「演奏技術を高める」ために作曲された作品というイメージがあるでしょう。ハノンのようなものを思い浮かべる人もいるかもしれません。

ピアノの作品ではショパンのエチュードを知らない人はいないと思いますが、ショパンのエチュードが単にそのような目的で作曲されたものでないことは誰でも分かると思います。純粋に芸術的価値の高い音楽です。それに追随して他の多くの作曲家も、技巧的な内容を含みつつも、音楽的に素晴らしいエチュードをたくさん作曲しました。

では、ピアノを勉強していくにあたって、これらのエチュード作品をどのように使うべきでしょうか。もちろん皆さんがよく弾いてきたブルクミュラーやチェルニーもエチュードではありますし、ロマン派以降には必ずしも技術を上げるという目的だけではないエチュードの名を冠した作品もあります。「演奏会用エチュード」という名の作品は、もはや「練習曲」という位置づけでは語れないでしょう。

そのように古典の時代から現代までさまざまな作曲家によるエチュード作品がありますが、エチュードには充実した素晴らしい作品が多いのです。それは、きっと作曲家たちが楽器の演奏技術に制限を設けずに、あるいは独創的で新しいテクニックを盛り込んだり、初心者でも弾きやすいようにと音楽を簡略化したりせず、とことん芸術性を追求した結果として傑作が多く生み出されたからかもしれません。

私がそれを強く思ったきっかけは、3年前にイタリアのペルージャ音楽祭に行った時に企画されたコンサートの一つ「エチュード・マラソン」を聴いたことです。世界中から参加した若いピアニストたちが演奏をしました。この演奏会のタイトルは、いかにも技術を競うというようなニュアンスに聞こえがちですが、実際のこの演奏会の内容は、いくつかあったコンサートの中でも秀逸だったのです。1人が1曲ずつ自分の得意とするエチュード作品を次々と披露していくというスタイルのコンサートでしたが、音楽とは、そしてピアノを演奏するということはこんなにも素晴らしいものか!と感じ入りました。ある人は、純粋に高度なテクニックを伴った楽曲を披露する、ある人は音楽への思い入れが強くその作品の美点を自分の感性でアピールする、ある人は叙情的なエチュードを選曲し、またある人はあまり演奏されることのない珍しい作品を披露する…、私の生徒も彼らに混じってカプースチンのエチュードなどを弾いたと記憶していますが、あらゆる作曲家の個性的なエチュードが素晴らしい輝きを持って心に響いてきたのでした。それまで私はエチュードというものに何の偏見も持っていなかったはずなのですが、その日のコンサートを聴いて自分の持っていたエチュードの概念がガラッと変わってしまいました。欧米のピアニストたちの「エチュード」に対する考え方は少し違うのではないかと思いました。

ともあれ、難しいエチュードは簡単には弾きこなせないのは確かです。ある音楽的欲求を実現するために高度な技術が必要というのは本当だと思います。だからこそ、数あるエチュード群を一定のレベルで制覇することは、ピアノの演奏技術の向上に欠かせないと思います。

そこで、エチュードとはいったい何なのか。作曲家たちはどういう目的で作曲したのか。なぜ魅力的な作品がこんなにもたくさん作曲されたのか。エチュード作品はピアノの勉強でどのように使っていくべきなのか。これらについて考えてみました。

そのような経緯もあって、来たる8月20日(水)にカワイ名古屋で『エチュード』に新たなスポットを当てる内容の公開講座を行うことになりました。
詳細はこちらです

ピアノ音楽史の中でエチュードが果たした役割について、少し踏み込んで考えてみたいと思っています。ただ、当日は公開レッスン形式で行うことになりそうなので、内容はどのようになるかまだ分かりません。でも、あらためてエチュードの勉強の仕方について皆さんと一緒に考えてみる機会にしたいと思っています。

ハノンについても、まだまだ誤解が多いのではないかと思います。ハノンはたしかに芸術的な曲とは言えないでしょう。指を作ることを目的としたいわゆる「練習曲」です。ただ、使い方によっては無限の価値があると私は思っています。それに対して、チェルニー、クラーマー、クレメンティなどは、練習曲ではあるけれども音楽的な曲として書かれています。ブルクミュラーは私は純粋に音楽的だと思いますが、あれも作品としてはエチュードです。

エチュードについては、これまで知られていなかったこと、またあまり深く考えずにピアノの練習の教材として使われてきたことも多いと思います。ハノンについては、あの60番練習曲がどのような経緯で作曲されたとか、ハノンがどういう人だったかなどに興味を持たれたことはなかったのではないでしょうか。私はハノン(練習曲)の価値には敬意を評しているものですが、日本語の文献では不思議なくらいにハノン(作曲家)について知ることができるものが見当たりません。(外国語の文献ではいくつか分かるようになってきました。)

あるいはチェルニーについてもこれまでは多く誤解されてきましたが、最近は多くの詳細な情報が得られるようになりましたし、ブルクミュラーについても、あの有名な『25の練習曲』の素晴らしさと比べると、作曲家としては不当なまでに認知されていない、というか、ほとんど知られていないという事実がありました。でも、ブルクミュラーに関しては、最近『ブルクミュラー25の不思議~なぜこんなにも愛されるのか』(音楽之友社)という本を書いて出版してくださった飯田有抄さんと前島三保さんのお二人のお陰で、人としてのブルクミュラーやその作品に関して詳しく知ることができるようになりました。この本を読むと、『バイエルの謎』(音楽之友社)を読んだ時と同種の感動が得られます。

ブルクミュラーに関しては、『25の練習曲』『18の練習曲』『12の練習曲』の3つの作品だけを見ても、演奏を聴いたり楽譜を見て弾いたりしてみると、なかなかの力量を持つ作曲家であることは分かると思います。なぜ『25の練習曲』はこんなにも飽きられることなく多くのピアノ学習者たちに弾かれ続けているのか。それは音楽が素晴らしいからだと思うし、やはりバランス感覚やセンスが光っています。今後ほかにどんな教材が出てきたとしても、まだまだ不滅の名作ではあると思います。やはりブルクミュラーも高い才能を持った作曲家だということでしょう。

少し長くなってしまいました。
そのように、あらゆる作曲家のエチュードについて一度スポットを当ててみて、新たなピアノ演奏の技術向上のための視点を提示してみたいと考えています。

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