一昨日と昨日、2日連続で彼のハイドンについての公開講座(合計4時間)を通訳しました。
とても素晴らしいものでした。特に実地のレッスン指導では、学生が弾いてきたHob.XVI/48のC-durのソナタが題材となりましたが、1楽章も2楽章も2日間で1〜2ページずつしか進まないほどの丁寧さで、しかもすべてが大切なアドヴァイスの連続だったと思います。
彼は教養も豊かで、1日目の公開授業の冒頭では、例えばヨーロッパの大まかな音楽の発展について、その中でも特にバロックからウィーン古典派までの流れについて、音楽以外のことも含めて歴史的な背景の話もたくさんしました。そして話はどんどん飛んでいきます。実は通訳をするに際して、私としては授業の前に少しでも何らかの打ち合わせをしたかったのですが、彼は「難しいことは言わないから」と、何を話すかなどまったく教えてくれませんでした。ところが、授業開始の3分前になって突然、「実は面白い本がいくつかあってね…」と言い出し、4冊ほど分厚いドイツ語の本をカバンから取り出しました。さすがによく勉強していると見えて、アンダーラインが引いてあったりします。いくつかの興味深い箇所を説明し始め、「この本とかその本から少し引用しようと思うのだけど…」などと言い出しました。200年前の難しいドイツ語も混じっていて、私は「参ったな、そういう資料があったらあらかじめ見せてほしかったのだけど…」と思いましたが、仕方がありません。ぶっつけ本番ですべて通訳しました。
例えば、ハイドンと同時代のオーストリアの音楽学者C.F.D.シューバルトの書いた「音楽の美学的見地からの思想」(1806)という本を取り出して、24の調性それぞれが備えている特性の違いについて書かれている箇所をその場で抜粋して読み、演奏上に役立てるための説明を加えたりしました。これは、おそらく西洋音楽史や音楽美学、アナリーゼの授業でも語られたりする内容でしょう。また、当時は言葉で表現されるべきことを音楽の中で語るという思想があったこと、またこの時代18世紀オーストリアの独特な歴史的意味、政治的意味、特に啓蒙思想との関連で、ハイドンとモーツァルトの作曲のスタンスや彼らの生き方や振る舞い方の違いとその音楽の特性についてなども語られました。
また「言葉」を知らなくては音楽の正しい理解はできないということや、レトリックということについても強調していました。感心したのは、彼自身が言葉を巧みに操ること、また決して表面上のレトリックということではなく、「言葉」をきちんと理解し、それを「音楽」と見事に結びつけて演奏上の指導をしていたことです。本などから得られる知識は、内容が専門的になればなるほど難しい哲学的議論に陥りがちですが、彼の場合は決して表面的な解釈ではなく、本当に深く理解した上で自身の見解を確立しているのだと感じました。授業全体を通して、質の高い内容を維持していたと思います。欧米の人としては当たり前かもしれませんが、ピアニストとしての領域をはるかに超えた幅広い教養を持っていることに共感しました。