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カプースチン普及の軌跡


「カプースチン祭り2025」のイベントまであと約1ヶ月になったので、少し時間をさかのぼってカプースチンが日本で普及した経緯を楽譜出版とイベントの観点から書いておきたいと思います。

楽譜出版に関しては、私が2003年に初めてカプースチン本人とコンタクトを取るようになって、それがきっかけで作曲家本人と一緒に作業をして楽譜を校訂出版できるという恩恵に浴しました。その2004年の最初の楽譜出版に際してカプースチンに彼自身の運指を書き入れてもらったのです。楽譜『8つの演奏会用エチュード』と『24のプレリュード』が2004年11月に全音楽譜出版社から同時発売されました。これが日本にカプースチンブームを作った最初のきっかけだったと思います。

なんともう20年以上前のことになります。
この出版と同時に全音楽譜出版社さんがすごく営業活動を頑張ってくれて、私は楽譜校訂者(=カプースチン伝道者)として2005年2月から全国各地の楽譜ショップ中心にカプースチン講座で回りました。レクチャーと演奏、あるいはミニコンサート形式でやるケースもありましたが、最初の年はすごく多くて1年間で日本の各地で40回以上もやりました。
日程が決まった順番にどんどん予定を入れていきましたが、かなり初期の頃にヤマハ札幌店にも呼ばれました。早い段階で札幌からオファーがあったのですがこれがとても嬉しかったのを記憶しています。このカプースチン普及の活動開始はもちろん首都圏(東京・神奈川あたり)から始まりましたが、札幌に呼ばれたのが「4番目」とかなり早かったのを覚えています。
ちなみにその後、同年に旭川の小さな楽器店でもイベントを行いましたが、それも「12番目」。考えてみればこれもかなり早いほうですから、カプースチンの音楽の広がりや普及活動の開始は北海道はけっこう早かったのです。

ですから、今回カプースチンのレクチャーで呼ばれた旭川が私の地元であることは偶然以外の何物でもなく、北海道の人は一般的に新しいものに対してアンテナが早く、また行動においても積極的な部分があるように思えます。

(※余談ですが、上の札幌と旭川の公演には後日談があり、札幌公演ではこの時期あまりに忙しくて練習時間が充分とれず、最後の演奏があまりにダメダメで泣きそうになってしまったこと、旭川公演ではちょうどその数日前に家で肋骨を2本骨折してしまい(ヒビが入った状態)、かなり「痛い」状況でカプースチンを数曲演奏しなければならずやはり泣きそうになった、ということがありました。(泣))


2004年の楽譜出版に続いて、その翌年に全音からさらに2冊の楽譜(ピアノ作品集1・2)の合計4冊を出してカプースチンの楽譜が日本全国に普及していきました。

それからかなり時間が経って、「カプースチン祭り」をイベントとして正式に毎年やるようになったのは、おそらく2015年からです。最初から現在と同じように第1部から第3部まで設けて、「半日カプースチン漬け」というコンセプトで、オール・カプースチンで7~8時間の充実した内容を作るというイベントをやってきました。

最初のカプースチン祭りのチラシデータ(2015)

今回のフライヤー(2025)


初期の「カプースチン祭り」には生前のカプースチンも興味を持ってくれていて、私は当時チラシデータをスキャンして必ず彼にメールで送っていました。そして演奏会後には毎回報告もしていました。

この「祭り」を10年間続けてきたことで、彼の作品で世界初演していないものがほぼなくなってしまいました。逆を言えば、この作曲家の第一次的な作品の全面的な公開と人物紹介という面ではこの「祭り」が唯一の役割を果たしてきたと思うし、カプースチン仲間やファンが増えていく契機にもなったと思います。ある意味で使命はもう十分に果たしたので、おそらくこのような形態でのイベントは今年が最後になるかもしれません。

ということで、今後どのような新しい形でやっていくか、これを考えていく時期に入ったかなと思っています。今までもそうでしたが、世界に発信できる内容として日本からの独自色を出していくべきではないかとは考えているところです。

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